魂とは

 

皆さんのご家庭にはいろいろな電気製品があると思います。テレビ、ラジオ、コンピューター、時計、ランプ、炊飯器。数えれば少なくとも10以上はあるでしょう。でも、どの家庭に行っても絶対にない電気製品が1つあります。それは何だと思いますか。家内からこんな質問をされて、わたしは答えられませんでした。でもこれだけの数の方たちが教会堂におられれば、答えられる方が少なくとも一人はおられるでしょう。そうです。それは電気椅子です。皆さんの家には絶対に電気椅子をおいていないでしょう。

 

人は誰でも死というものをあまり考えたくないでしょう。できれば、毎日楽しく生きたいと思うでしょう。でも、キリストの再臨がもしも遅れるならば、死は必ずわたしたちのもとへやってくるのです。

 

今朝、「人間の死とは何か」を二つ聖書の言葉から考えていただきたいと思います。その二つの言葉とは、「魂」と「霊」です。

 



 

ヘブライ語の旧約聖書は魂のことをネフェシュと呼んでいます。この言葉は旧約聖書全体で754回出てきて、NKJVでは312回「魂」と訳されています。ある神学者の説によると、このネフェシュという言葉は45種類の意味があるそうです。それだけこの言葉は幅広くいろいろな意味に訳されているのです。

 

ではこの魂と訳されるネフェシュにはどんな意味があるのでしょうか。まずはっきりしていることは、ネフェシュが人間そのものを表す言葉であるということです。

 

創世記12:5 アブラムは妻サライと、弟の子ロトと、集めたすべての財産と、ハランで獲た人々(ネフェシュ)とを携えてカナンに行こうとしていで立ち、カナンの地にきた。

 

ここに出てくる「人々」とはネフェシュ、つまり魂のことです。旧約時代、人々は魂と呼ばれていました。魂は身体に備わっているものではありません。身体と別個の存在ではありません。身体から切り離されるものでもありません。人間全体が魂なのです。

 

第二にネフェシュは人間だけでなくいろいろな生き物を表すときに使う言葉です。

 

創世記1:20 神はまた言われた、「水は生き物(ネフェシュ)の群れで満ち、鳥は地の上、天のおおぞらを飛べ」。

1:21 神は海の大いなる獣と、水に群がるすべての動く生き物(ネフェシュ)とを、種類にしたがって創造し、また翼のあるすべての鳥を、種類にしたがって創造された。神は見て、良しとされた。

 

創世記1:24 神はまた言われた、「地は生き物(ネフェシュ)を種類にしたがっていだせ。家畜と、這うものと、地の獣とを種類にしたがっていだせ」。そのようになった。

1:30 また地のすべての獣、空のすべての鳥、地を這うすべてのもの、すなわち命あるもの(ネフェシュ)には、食物としてすべての青草を与える」。そのようになった。

 

水の生き物も、地の獣も、家畜も、空の鳥も、地を這う生き物も、あらゆる動く生き物が、「生きたネフェシュ」すなわち「生きた魂」と呼ばれています。狸も、鶏も、禿げたかも、豚も牛も、みんな「生きた魂」です。魂は決して見えない存在ではありません。実際に、口から息をして、何かを見て、感じて、動き回って食べ物を探す、そんなごくありふれた動物を、聖書は魂と語っているのです。魂は人間だけでなくあらゆる動物に当てはまるのです。

 

第三に、ネフェシュは血をもった生き物のことを表しています。

 

レビ記17:14 すべて肉の命(ネフェシュ)は、その血と一つだからである。それで、わたしはイスラエルの人々に言った。あなたがたは、どんな肉の血も食べてはならない。すべて肉の命(ネフェシュ)はその血だからである。すべて血を食べる者は断たれるであろう。

 

この14節の「命」はヘブライ語のネフェシュで、魂のことを表しています。魂と血とは一つで、切り離すことのできない関係にあるのです。血のあるすべての生き物は魂と呼ぶことができるのです。魂は決して霊的な存在ではありません。

 

第四に、ネフェシュは罪を犯して死んでしまう人間を表しています。

 

エゼキエル書18:20 罪を犯す魂(ネフェシュ)は死ぬ。子は父の悪を負わない。父は子の悪を負わない。義人の義はその人に帰し、悪人の悪はその人に帰する。

 

魂は罪を犯して必ず死にます。自分が見たこと、聞いたこと、考えたこと、行ったこと、すべてに対して、魂は責任を負うのです。肉体だけが罰せられて、魂が永遠に救われるのではありません。

 

第五に、ネフェシュは人間の心の活動の中心部分を表します。

 

詩篇35:9 そのときわが魂(ネフェシュ)は主によって喜び、その救をもって楽しむでしょう。

84:2 わが魂(ネフェシュ)は絶えいるばかりに主の大庭を慕い、わが心とわが身は生ける神にむかって喜び歌います。

 

魂は自分の気持ちを表すところでもあります。喜んだり悲しんだり神に祈ったりするところです。

 

このように魂は何か見ることのできない空気のような存在ではなく、見たり、聞いたり、考えたり、感情を表したりして行動する人間や他の生き物の存在の全体を表しているのです。

 

 

では霊はどうなのでしょうか。霊とは何でしょうか。人が死ねば、霊はどうなってしまうのでしょうか。

 

まず、霊とは息です。

 

ヨブ記33:4 神の霊はわたしを造り、/全能者の息はわたしを生かす。

 

ここで霊と息が同義語として使われています。ほぼ同じ意味です。あえて違いを言えば、息は静かな身体の息ですが、霊はもっと活動的な息です。ですから、神がアダムを形作って彼の鼻に吹き入れたのは、ご自身の霊でありました。

 

創世記2:7 主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。

 

第二に、霊はいのちです。

 

イザヤ書38:16 主よ、これらの事によって人は生きる。わが霊の命もすべてこれらの事による。どうか、わたしをいやし、わたしを生かしてください。

 

これはヘゼキヤが病気で苦しんでいたときに、神に祈った言葉です。霊はわたしたちの体を癒し、わたしたちを生かしてくれる神の力です。

 

ところがこの霊が取り去られると、人は死んでしまいます。

 

ヨブ記34:14 神がもしその霊をご自分に取りもどし、/その息をご自分に取りあつめられるならば、

34:15 すべての肉は共に滅び、/人はちりに帰るであろう。

 

伝道の書12:7 ちりは、もとのように土に帰り、霊はこれを授けた神に帰る。

 

ここで明らかにされておくべきことが二点あります。ひとつは人間の存在が100%神の霊に依存しているということです。神の霊がなくなれば、人間は生きていくことはできないのです。第二に、人は死ねば、悪人であろうと、義人であろうと、それぞれの霊は神に帰るのです。人が救われるかどうかは、その人が死んだら決まるのでなく、主が再び来られるときに決まるのです。

 

詩篇146:4 その息が出ていけば彼は土に帰る。その日には彼のもろもろの計画は滅びる。

 

ここには「彼のもろもろの計画は滅びる」と訳されています。この「もろもろの計画」は本当の意味で正しい訳ではありません。アドベンチストの辞典に解説されていますが、これは「もろもろの思い」です。KJV70人訳聖書もVulgate訳もこれを支持しています。人は死ぬときに、その人の思いは完全に消えてなくなるのです。

 

霊は人間にだけでなくあらゆる生き物にも宿ります。

 

創世記7:15 すなわち命の息(霊)のあるすべての肉なるものが、二つずつノアのもとにきて、箱舟にはいった。

7:22 すなわち鼻に命の息(霊)のあるすべてのもの、陸にいたすべてのものは死んだ。

 

伝道の書3:19 人の子らに臨むところは獣にも臨むからである。すなわち一様に彼らに臨み、これの死ぬように、彼も死ぬのである。彼らはみな同様の息(霊)をもっている。人は獣にまさるところがない。すべてのものは空だからである。

3:20 みな一つ所に行く。皆ちりから出て、皆ちりに帰る。

 

 

詩篇104:29 あなたがみ顔を隠されると、彼ら(レビヤタン[海の生き物])はあわてふためく。あなたが彼らの息(霊)を取り去られると、彼らは死んでちりに帰る。

 

地の獣も海の生き物も人間と同じように霊をもち、死んだときにその霊は神の元に帰って行きます。魂はなくなり、肉体は塵に帰り、意識は消えてなくなります。わたしたちのすべての存在はこの世から消え去っていくのです。これが旧約聖書の語る死です。

 

このことはわたしたちにいったい何を教えているのでしょうか。それは謙遜になることです。自分が塵に帰っていくはかない存在であることを覚えることです。神からの霊があるからこそ、自分が生かされているのであって、その霊が神のもとに帰っていくときには、自分の存在がまったくなくなってしまうことを認めることです。自分の意識は完全に消えてなってしまうことを謙虚に認めることです。かつてサタンはエバを誘惑してこう言いました。

 

創世記3:4 へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。

3:5 それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。

 

サタンはエバに「あなたがたは何をしても死ぬことがない」と言いました。神に背くようなことをしても、神のように賢くなると言いました。しかし、それはうそでした。神のように賢くなるどころか、土は呪われ、夫婦の絆は壊れ、苦しんで子供を生み、苦しんで食べ物を得、苦しんで死んでいくようになりました。人間は神の前に偉くなることができません。神のように偉くなろうとするとき、そこに大きな落とし穴が待っています。

 

永遠のいのちは自動的に与えられるものではありません。永遠のいのちは条件付です。それはイエス・キリストを個人的な救い主として信じ、その道に従う信仰です。その条件に従わないならば、わたしたちは永遠に塵のままでいるのです。霊は神のもとから永遠に戻ってこないのです。永遠に意識は失われたままになるのです。永遠に家族との再会は果たされないのです。永遠に神との交わりを喜べないのです。わたしたちの今のいのちも、永遠のいのちも、すべてを神に依存しているのです。神から霊をいただいているから、こうしてわたしたちは生きることができるのです。イエス・キリストの十字架上の贖いがあったから、わたしたちには永遠に生きる希望が与えられているのです。今を生きているのも、永遠にこれから生きるのも、自分の力ではなくて神の力が働いているからです。わたしたちは謙虚にこれを認め、主に感謝するようにいたしましょう。

 

わたしがフィリピンに滞在したときに、モンテンルパにある刑務所を訪問しました。ここで今から60年前の1946年の1月に、14名の日本兵が処刑されました。そのうちの6人はキリストを信じて、バプテスマを受けました。彼らは刑を受ける前に、祖国のために祈りました。家族のためにも祈りました。そして自分たちを処刑する執行人のためにも祈りました。その中に一人に中村秀一さんがいました。彼は処刑台に上がったとき、目隠しを拒否しました。そしてその場に立ち会った当時のPUC(フィリピン・ユニオン・カレッジ)の学長であったネルソン先生に「長らくお世話になりました。おかげでイエス様のところに帰ることができるように信仰を持たせていただきました。ありがとうございます」と挨拶をして、握手をしました。すると、ネルソン学長は「おやすみなさい。朝になったらまたお会いしましょう」と言いました。すると、「再臨のときにお目にかかりましょう」と答えました。

 

中村さんの身体は塵に戻って、霊は神のもとに帰りました。彼の魂はこの世から消えました。彼の思いもなくなりました。しかし彼には再臨のときのよみがえりの約束があります。どうしてでしょうか。それはイエス・キリストを信じたからです。神がもう一度新しい霊を与えてくださると信じたからです。彼は謙虚にイエスの救いを信じたのです。

 

イザヤ書57:15 いと高く、いと上なる者、とこしえに住む者、その名を聖ととなえられる者がこう言われる、「わたしは高く、聖なる所に住み、また心砕けて、へりくだる者と共に住み、へりくだる者の霊をいかし、砕ける者の心をいかす。

 

主は心砕けて、へりくだる者と共に住み、そのいのちを守ってくださいます。わたしたちが主によって生かされていることを感謝しましょう。いずれはわたしたちの身体は塵に戻り、霊は神のもとに帰っていきますが、神の霊によって新たによみがえることを信じましょう。そして一歩一歩主のみ足跡に謙虚に従って参りましょう。