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誰を恐るべきか
聖書の中で最初に恐れが描写されているのは、アダムとエバが始めて罪を犯したときのことです。彼らは神に背いて禁断の木の実を食べるようになると、神から逃げるようになりました。神の足音を聞いただけで、身を隠すようになりました(創世記3:10)。神の裁きを恐れたからです。
イスラエルの民はシナイ山の麓で神を非常に恐れました(出エジプト記19:16-18)。神が天からその山に下りて来られたことで、雷と稲妻が鳴り、山が厚い雲で覆われて、どこからかラッパの音が聞こえてきました。煙がかまどの煙のように立ち上がって、山全体が揺れました。人々は自分のいのちが奪われることを恐れて、ガタガタと身を震えわせてしまいました。
預言者イザヤは天の光景を見たときに恐れを感じました(イザヤ書6:1-5)。彼は天のみ座に座した神がぼやけて見ました。その周りには天使がいて、互いに呼び交わしました。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、その栄光は全地に満つ。」そのとき、イザヤは自分が死んでしまうのではないかと思いました。彼は自分が神のそばにいることに恐怖を感じたのです。
恐れは人間が神の臨在を意識したときに押し寄せてくるものです。神がそばにおられることを意識すればするほど、恐れは強くなります。聖書は「神を恐れなさい」と語っています。神のことを真剣に考えて、恐れる心を持ちなさいと語っています。伝道の書12:13-14を開いてみましょう。
伝道の書12:13 事の帰する所は、すべて言われた。すなわち、神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である。 12:14 神はすべてのわざ、ならびにすべての隠れた事を善悪ともにさばかれるからである。
この「伝道の書」の著者はこの世の富と権力と快楽、そして知恵と知識など、この世の人たちが求めるあらゆるものを手に入れました。彼は人生のさまざまなことを経験しました。そしてこれまでの生き方を深く吟味したときに、生涯にわたって神を恐れ、その命令を守ることがもっとも良いことであると結論をくだしました。なぜなら、神は隠れた事柄をもすべて正しく裁かれると、信じたからです。人をだますことができても、神をだますことはできないのです。神はすべてのことをご存知なのです。隠れたところで内緒話をしたとしても、神は聞いておられるのです。隠れた行いも、神はご覧になっておられるのです。神のまえに隠せるものはなにもないのです。だから、神を恐れなさい。神の命令を守りなさい。これがすべての人の本分です。伝道の書は最後の締めくくりに、こう語りました。詩篇111:10をお開きください。
詩篇111:10 主を恐れることは知恵のはじめである。これを行う者はみな良き悟りを得る。主の誉は、とこしえに、うせることはない。
主を恐れることは、わたしたちが知恵を得る出発点であります。これから何をしたらいいのか、何が正しくて、何が悪いことなのか、そのようなことを見極めていくために、第一にしなくてはいけないことは、主を恐れることです。つまり主を恐れることを無視してしまったら、わたしたちは人生の目的を失ってしまうのです。そしてとんでもない道に進んで行ってしまうのです。取り返しつかない失敗を犯してしまうこともあるのです。神を恐れることは、あらゆることを始める前の前提条件であるのです。
わたしはまだ10代の青年であったとき、神を恐れることの意味が分かりませんでした。礼拝には出席しました。牧師の説教を静かに聞いていたものの、あまり頭に残っていませんでした。自分のほうから求めようとする心がなかったのです。十分の一献金もしていませんでした。献金は親からもらったものをささげていただけです。献金がどれほど大事なものであるかを理解していませんでした。神の臨在を単なる人間の存在であるかのように軽く見ていたように思います。しかし、いろいろな経験を積み重ねていったときに、神を恐れることがすべての出発点であることが少しずつ分かってきました。この詩篇111:10はとても大切なみ言葉です。
週報の内側の下に、小さな英語の字で書かれたところをどなたか読んでくださいますか。 「他人を思いやり、恐れを抱いて、静かに、礼拝にのぞむように」
礼拝は主を恐れることを経験する大切なときです。礼拝を抜きにして、主を恐れることを経験できるところはありません。ヨハネの黙示録14:7をお開きください。
黙示録14:7 大声で言った、「神をおそれ、神に栄光を帰せよ。神のさばきの時がきたからである。天と地と海と水の源とを造られたかたを、伏し拝め」。
これは神が終末に生きるわたしたちの教会に語られた第一天使の使命です。ここで強調されていることは、神を恐れることと、神に栄光を帰せることと、創造主なる神を礼拝することです。この三つの命令はひとつの命令としてまとめられています。つまり、神を恐れることは、神に栄光を帰せることであり、神を礼拝することであるのです。恐れの心をもって礼拝するのです。これが終わりの時代に生き残るためにとてもたいせつなのです。ですから恐れの心を無くして礼拝に望むならば、いずれはこの礼拝の群れから離れていくようになります。
この7節には、神を恐れなくてはならない大きな理由が書かれています。それは「神のさばきの時がきた」ということです。神のさばきが遅れているのではありません。既に裁きが始まったのです。安息日学校教課でこの3ヶ月間に、この神の裁きが1844年に始まったことを学びました。今、わたしたちは非常に厳粛なときに生きています。この世に生きている人たちが一人一人裁かれているのです。悪は報いを受けて、善は必ず勝利します。このさばきは既に始まっていて、いつの日か、必ずわたしたちはその最終的な結果を見るのです。ですから、今のときに、信仰をもって神を恐れ、神を礼拝しなくてはならないのです。
わたしは今年の夏休みにある教会の礼拝に出席しました。もう礼拝が始まって、牧師の説教も中間を迎えたときだったでしょうか。一人の女性がわたしの近くに座りました。そして隣の人と話し始めました。それが延々と10分ほど続いたのです。わたしは牧師の説教が聴けなくなりました。心が落ち着かなくなりました。そして、ついに我慢できなくなって、「エクスキューズミー」とひとこと言いましたが、まだ続けていました。それからしばらくして、やっと話を止めてくれました。しかし、わたしはもう説教に集中することができなくなっていました。礼拝がもう礼拝でなくなりました。この経験から、礼拝時間に隣の人とおしゃべりをすることが、どれほど周りの人に迷惑をかけ、彼らから礼拝の心を奪っているかを教えられました。これは罪です。このようなことは礼拝にあってはなりません。わたしたちは礼拝を守るために、神を恐れる心を大切にしなくてはならないのです。
この人間社会はたくさんの知識人を生み出してきました。ダニエル書の預言にあるように、この終わりの世になって、人々は多くの知識を習得しています。特にコンピューターが使われるようになってから、ますます人々の知識は増えてきました。しかしそんな社会の流れの中で、ひとつ気になることがあります。それは分からないことに対する恐れを人間が失いつつあるということです。たくさんのことを知っていることで、知らないこと、あるいは分からないこと、説明できないことに対して、バカバカしいと思ったりするのです。たとえば、神が存在されること、神が六日間でこの世を創造されたこと、イエス・キリストの誕生・復活・再臨、エレン・ホワイトの幻と預言などを取り上げることができます。
わたしたちは分からないことに対する恐れを持つべきです。神の存在やそのみ業に対して恐れを持つのです。そして、「理解できないことは真実ではない」という考えを捨てていくのです。
これから洗足式と聖餐式を始めます。イエスはわたしたちに互いに足を洗いあうように勧められました。それは互いに汚れたところを洗いあうことで謙遜になることを覚え、神からの罪の赦しを願うのです。そして、聖餐式において、イエスの身体と血を象徴するパンとぶどうジュースを口にすることで、イエスにすべてをささげることを決心するのです。皆様どうぞこの式典にご参加ください。まだ教会員でなくても、主イエス・キリストを信じて、この方にすべてをゆだねて生きていきたいと願う方たちも、どうぞご参加ください。
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