誰に感謝すべきか

 

感謝祭が近づきました。皆様は日ごろ何に感謝しておられますか。わたしのメッセージの前にまず皆様が感謝しておられることをあげていただきたいと思います。

 

わたしたちの主イエスは5千人の人々にパンと魚を分け与えられるとき、感謝の祈りをささげられました(ヨハネ6:11)。死んだラザロを生き返らせるときには、「わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します」と言って、まず父なる神に感謝されました(ヨハネ11:41)。最期の晩餐のときも、まずパンとブドウジュースを感謝されて、それから弟子たちに分け与えられました(ルカ22:17,19)。このように何か大事なことをしようとされたとき、その前にまず感謝の祈りをささげられました。テサロニケ第一5:16-18をお開きください。

 

テサロニケ第一5:16 いつも喜んでいなさい。

5:17 絶えず祈りなさい。

5:18 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。

 

この18節の「すべてのこと」とは、あらゆる状況を含んでいます。それが嬉しいことであろうとも、悲しいことであろうとも、あるいは悔しいことであろうとも、わたしたちはすべてのことに感謝するのです。

 

ダニエルは毎日主に祈りをささげました。王以外のものを拝んではいけないという禁止令が出されても、祈りをささげました。その禁止令に背けばライオンの洞窟に投げ込まれることを知っていましたが、主に祈りをささげました。それもこっそりとではなくて、二階の部屋のエルサレムに向かって窓の開かれたところで、いつものとおりに祈りました。一日に三度、ひざをかがめて祈りました。ダニエル610をご覧ください。彼は「神の前に祈り、かつ感謝した」と書かれています。非常に危険な状況の中で、彼は感謝の祈りをしました。

 

使徒パウロもそうでした。使徒行伝27をご覧ください。パウロは他の囚人たちとともに船に乗ってローマに搬送されることになっていましたが、その船旅の途中で、激しい暴風雨に遭遇しました。彼らは海の上を漂流するようになり、皆は助かる希望を捨てます。しかしそんな時に、パウロはみんなを元気付けて食事を取るように勧めるのです。35節をご覧ください。パウロはパンを取り、みんなの前で神に感謝し、それを割いて食べました。彼は助かる望みがないような状況の中で、神に感謝の祈りをささげたのです。

 

いったいどうしたら「すべてのことについて感謝」できるようになるのでしょうか。テサロニケ第一5:18をもう一度ご覧ください。ここに、わたしたちが感謝することを、神が「キリスト・イエスにあって」求めておらると書かれています。つまり、わたしたちがイエスを見上げることで感謝するように神は求めておられるのです。身代わりになってわたしたちの罪の刑罰を受けてくださったイエスを見上げるのです。殺人の罪や、姦淫の罪、窃盗、偽証、人間が犯すあらゆる罪を代わりに全部背負って十字架上で罰を受けられたイエスを見上げるのです。わたしたちが生まれる前から、あるいはわたしたちが神を知る前から、救いの計画を立てられたイエスを見上げるのです。そして感謝するのです。

 

しかし、イエスがなされたのはこれだけではありません。天にお帰りになってから、今わたしたちに代わって天の裁きの場に立ってくださっています。全宇宙の前でわたしたちの行いが裁かれるときに、イエスはわたしたちに代わってその場に立って、わたしたちを弁護してくださるのです。十字架上で約束された救いを、わたしたちが信じて、受け入れていくならば、イエスはわたしたちの代わりに立ってくださるのです。わたしたちが最後までイエスに忠実であり続けるならば、わたしたちの代わりに立ってくださいます。今日皆さんが犯す罪も、イエスが裁きの場に代わりに立ってくださるので、赦されるのです。ですから、この方に仕える限り、誰もわたしたちを罪に定めることができません。サタンでさえも(わたしたちを)告発することができません。ローマ834をお開きください。

 

ローマ8:34 だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。

 

では、(わたしたちは)この感謝祭に誰に感謝すべきなのでしょうか。そうです。それはイエス・キリストです。わたしたちが永遠のいのちを救いを得るためにあらゆるをことをしてくださり、今もしてくださっているイエスに感謝の気持ちをささげるようにいたしましょう。もちろん、他に感謝できるものは多くあります。健康であることも、毎日の食物があたえられていることも、教会があることも感謝です。しかし、もっとも大事なことは永遠の救いです。それはこの世のあらゆる富にまさって大切です。それをイエス・キリストはわたしたちに与えてくださったのです。それゆえに、何事が起ころうとも、まず主に感謝すべき大切なことがらがあることを覚えるようにいたしましょう。

 

わたしの好きな讃美歌に「しずけき河のきしべを」があります。この詩を作詞したのはHoratio Gates Spaffordでした。彼は弁護士で非常に豊かな生活をしていました。奥さんの名前はAnnaで、一人の息子と四人の娘に恵まれていました。ところが不幸にも1871年に大事な息子を失ってしまいました。それだけでなく、同じ年にシカゴで大火災があり、彼が投資していた不動産をほとんどすべて失ってしまいました。

 

悲劇は更に続きました。2年後の1873年、彼は家族でヨーロッパ旅行をすることを決め、妻と娘たちを先にイングランド行きの船に乗せました。彼は後からイングランドで家族と合流することになっていました。ところが、その船が大西洋を航海しているときに大型の船と衝突して、20分足らずのうちに沈没してしまいました。226人の乗客が命を落とし、その中にHoratio4人の娘も含まれていました。妻のAnnnaは助かりました。彼女はイングランドに着くと夫に二言の短い電報を送りました。「わたしだけが助かった」と。Horatioは直ぐにイングランド行きの船に乗り込み、娘たちが死んだところへ来ると、詩を書きました。それがこの「しずけき河のきしべを」です。

 

しずけき河のきしべを

 

静かな河のような平安が訪れるときも

荒海のような悲しみが波打つときも

わたしの境遇がどのようなものであろうとも、主はわたしにこう言いなさいと示された。

わが心は平安だ。わが心は平安だと。

 

悪魔がどんなにわたしを苦しめようとも、

どんなに災難が降りかかろうとも、

わたしの窮状をキリストはすべてご存知であることを、

わたしの救いのために血を流されたことを

しっかりと確信しよう。

わが心は平安だ。わが心は平安だ。

 

主のご臨在はこの上ない喜びだ。

わが罪のすべてが十字架にかけられて、

罪の重荷から解き放たれたのだ。

わが魂よ、主に感謝せよ。主に感謝せよ。

わが心は平安だ。わが心は平安だ。

 

主よ、われらが見えずして信じていたものが見えるようになる日を、

天が巻物が巻かれるように消えていき、ラッパの音が鳴り響き、

主が栄光の姿で降りてこられる日を

どうか早めたまえ。

しかしその日がまだ来なくとも、わが心は平安だ。わが心は平安だ。

わが心は平安だ。

Horatio Gates Spafford [私訳]
[1873]

 

Horatioは自分の財産と息子と娘たちを失ってしまいました。しかし、このどん底の経験の中で、「主に感謝せよ」とこの讃美歌のなかに書きあげました。どうしてでしょうか。彼はキリストが再び来られることにすべての希望を託していたからです。

 

ピリピ4:6 何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。

4:7 そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。

 

「すべてのことについて感謝しなさい。これがキリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである」(テサロニケ第一518)。この命令は事態がわたしたちに不利とみえるときでも、わたしたちの益になるという確証である。神はわたしたちに害になるものに対して感謝の念をいだけとはお命じになっていない。

ミニストリー・オブ・ヒーリング 233ページ

 

確かに神はわたしたちに害になるものに対して感謝せよとおっしゃってはおられません。苦しみに感謝せよとはおっしゃっておられません。わたしたちが常に感謝するのは、イエスがわたしたちの身代わりになって十字架におかかりになってことであり、イエスがわたしたちの代わりに裁きの場に立っておられることであり、イエスが救いの完成のためにこの世にもう一度戻ってこられることです。イエスは必ずや最終的にすべてのことを益としてくださいます。わたしたちの意向に逆らって動いているように見える事柄であっても、最終的にはわたしたちのためになるのです。ガラクタと言ってもいいような不必要に見える経験も、必ずなくてはならないものとなるのです。このことを信じて、常に主に感謝するようにいたしましょう。皆様の上に祝福がありますように。アーメン。