ここに聖徒の忍耐がある

わたしたちはこれまで第一天使のメッセージと第二天使のメッセージを2回に分けて学びました。第一天使のメッセージでは「神を恐れ、神に栄光を帰し、造り主なる神を伏し拝め」と命令が発せられました。第二天使のメッセージでは「バビロンは必ず倒れる」と警告が発せられました。では第三天使のメッセージはどうなのでしょうか。このメッセージには神を礼拝しない者たちに対する裁きと神を礼拝する者たちの忍耐が記されています。それでは黙示録14:9-12をご覧ください。

黙示録14:9 ほかの第三の御使が彼らに続いてきて、大声で言った、「おおよそ、獣とその像とを拝み、額や手に刻印を受ける者は、

14:10 神の怒りの杯に混ぜものなしに盛られた、神の激しい怒りのぶどう酒を飲み、聖なる御使たちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。

14:11 その苦しみの煙は世々限りなく立ちのぼり、そして、獣とその像とを拝む者、また、だれでもその名の刻印を受けている者は、昼も夜も休みが得られない。

14:12 ここに、神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒の忍耐がある」。

ここには二種類の宗教的グループが書かれています。ひとつは「獣とその像とを拝み、額や手に刻印を受ける」グループです。もうひとつは「神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ち続ける」グループです。前者は悪に従い、後者は神に従います。この悪に従うグループは具体にどういったものかは、黙示録13章に説明されていますが、ここではあえてそれに触れないことにいたします。なぜならこの第三天使のメッセージで一番強調されているのは獣の働きではないからです。獣の刻印でもありません。獣を拝む者たちの最後の裁きでもありません。それはメッセージの一番最後に述べられた聖なる者たちの忍耐です。御使いは裁きの様子を語った後に、「ここに神を戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒の忍耐がある」と述べます。「ここに」とは、「ここ」が大事だということです。「ここに」焦点を当てなくてはならないのです。つまり聖なる者たちが最後の裁きで耐え忍ぶながら、神を戒めを守って、イエスを信じる信仰を持ち続けるということです。これが第三天使のメッセージの中心思想です。

では、まず獣を礼拝する者たちの最後のようすを調べてみましょう。ここに大切なポイントが3つあります。まず第一に、彼らは「神の激しい怒りのぶどう酒を飲」みます。しかもその「ぶどう酒」には「混ぜもの」がまったくありません。水で薄められたものではありません。100%純粋の濃いぶどう酒です。つまり、何の憐れみも情けも混ざらない非常に激しい怒りを100%まともに受けるのです。

第二のポイントは、その怒りによって天から「火と硫黄」が降ってくるということです。獣を拝む者たちはそれによって滅ぼされてしまいます。ちょうどソドムとゴモラの町やエドムの町のようです(創世記19:24;イザヤ書34:8-10)。二度と立ち上がることがありません。しかも、その彼らの最後は「聖なる御使いたちと小羊」(キリスト)との前で見届けられます。

第三のポイントは、その「火と硫黄」によって獣を拝む者たちが完全に焼き尽くされてしまうということです。11節に煙が「世々限りなく立ちのぼ」ると書かれています。いつまでも燃え続けるのでしょうか。いつまでも悪人は苦しみ続けるのでしょうか。そうではありません。もしそうならば、黙示録21:1に書かれた「新しい天と新しい地」の約束と矛盾することになります。ここには先の天と地とが消え去って新しい天と地に入れ替わると預言されています。海もなくなってしまいます。海がなくなるとは、ユダヤ人の理解によれば、神と人間に対して敵対する力がなくなるということです。ですから「世々限りなく」煙が立ち上るとは、ある一定の期間をかけて完全に焼き尽くされて、裁きが完了するのです。もう二度と罪の痕跡を見ることがなくなるのです。

こうして見ると、獣を拝む者たちに下される最後の神の怒りは非常に厳しいものです。何とかこの怒りを抑えるができないのでしょうか。それはできないのです。神は聖なるお方であられるから、罪に対する態度を絶対に変えることができないのです。神の戒めに何度も背いて、執拗に救いを拒むことを選んでいくならば、怒りはその人たちの上に下されるのです。神の怒りはこういう背き続ける人たちにとってどうしても避けられないものなのです。裁きの執行はこの終わりの段階に来ては決して延期することができないのです。撤回することもできません。

では神を拝む人たちはこの最後の裁きのときに何をするのでしょうか。黙示録14:12をご覧ください。彼らはじっと忍耐をします。神に抗議をしません。反抗したりしません。忍耐して神のなさることを見守るのです。そして自らは神の戒めを守り、イエス・キリストを信じるのです。

神戸の町が大地震にやられたとき、大勢の被災者の方たちがアドベンチスト病院に入院して来られました。彼らの中には家族を失った人や、家や仕事を失った人もいました。そのような方たちを見ていますと、本当に何を語ったらいいのか分からなくなりました。それで、その地震が起きて最初の安息日に、わたしは隣りの教会で説教をすることになりました。説教はもちろん病院の病室にも流れます。また礼拝堂には地震の被害を受けた信徒が何人かいました。そのような傷ついた人たちの前で、いったい自分はいったい何が語れるだろうかと考えたときに、あのときどうしても言葉が浮かんできませんでした。そのとき牧師になって初めて20分足らずの短い説教をしました。あまりにも周りの状況が悲惨であったために、神の御心が分からなくなってしまったのです。今振り返ってみたときに、あのときわたし自身がパストラルケアーを受けなくてはいけなかったように思います。

しかし、第三天使のメッセージで予告されている最後の裁きは、この地震よりももっと悲惨なものであるでしょう。それだけに、わたしたちはそのときの状況について傷ついた人たちに何と説明したらいいのか分からなくなるのかもしれません。ただできることは、その場を耐え忍び、自らが主の戒めを守って、ただひたすらイエスを信じ続けるのでしょう。イエスをただただ信じる以外に、もう何も信じるものがなくなるのです。

さて、第三天使のメッセージにはもうひとつ大切な約束が含まれています。13節をご覧ください。それは主にあって死ぬ人たちに対する約束です。死はとても辛いものです。それは老衰によるものであれば、受け入れられるものの、その原因が交通事故とか、病気とか、迫害であるならば、本当に辛いものです。苦しみながら死ぬことは耐え難いです。しかし、この13節にはこう書いてあります。

黙示14:13 またわたしは、天からの声がこう言うのを聞いた、「書きしるせ、『今から後、主にあって死ぬ死人はさいわいである』」。御霊も言う、「しかり、彼らはその労苦を解かれて休み、そのわざは彼らについていく」。

主にあって死ぬ人たちはその労苦から解かれて休みに入ります。しかも、彼らの良いわざは天の御国までついていきます。豊かな報いを受けます。わたしたちの労苦は主にあっては決してむだになることはないのです(コリント第一15:58)。

それゆえに、第三の御使いは最後の裁きに耐え忍ぶ聖なる民を紹介しているのです。彼らは決して獣を礼拝することをしないのです。むしろ来るべき御国の約束を信じて忍耐し、神の戒めを守り、イエスに対する信仰を持ちつづけるのです。

ある編集長が目の痛みを覚えて眼科医のところへ行きました。医者は彼の目を診断したところ、6ヶ月間目を休めるようにと勧めました。驚いた編集長は医者にこう言いました。「そんなことをしたら仕事を失ってしまいます。」そこで医者はもう一つの方法を提案しました。ちょうとこの編集長のオフィスは美しい谷と山脈の見渡せるところにありました。医者は彼に「1時間おきに10分休みなさい。編集の仕事を止めて、窓から山々を見つめてください。遠いところを見ることで焦点を合わすことができるでしょう」と助言しました。

わたしたちはときどき遠いところにあるものを見つめることで、もう一度霊的な眼の焦点を合わせる必要があるように思います。その遠いところとは天の御国です。わたしたちの本当の故郷です。イエスがわたしたちのために住処を用意しておらえる御国です。そこに焦点を当てることで、神の最後の裁きを乗り切るのです。一時的なものからしばし目をそらして、永遠なるものに目を向けて、一時的な艱難を乗り越えるのです。

テサロニケ第一5:5 あなたがたはみな光の子であり、昼の子なのである。わたしたちは、夜の者でもやみの者でもない。

5:6 だから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして慎んでいよう。

パウロはテサロニケの教会を通してわたしたちに「目を覚まして慎んでいよう」と勧めました。霊的なものを大切にいたしましょう。終わりのときが近いだけに、神との霊的な経験が決して上辺だけのものにならないように気をつけましょう。昨年に比べてもっと成長したものになるようにいたしましょう。物質的なものよりも霊的なものをまず第一にしていきましょう。イエス・キリストが来られる日を備えることに、あらゆる準備をしてまいりましょう。

この第三天使のメッセージは他の2つのメッセージと同じく天から伝えられるものです。人間的な知恵や努力や技術によるものでもありません。最後のメッセージは純粋に神の特別なご介入によって聞かされるです。マタイ24:14に書かれているイエスの言葉を思い出してください。「御国福音は、、、全世界に宣べ伝えられるであろう」と受身の動詞を使われました。福音宣教は最終的に神のお働きによって完結されます。ただわたしたちにできることは、神の戒めを守り、主イエスを信じる信仰をしっかりと持ちつづけることです。

そのためにも、しっかりと天の御国に目を向けるようにいたしましょう。わたしたちの霊的な生活を何ものよりもまず優先するようにいたしましょう。そして、堅く立って揺るがず、神を礼拝することがこの世の金銭よりももっと大事なものであることを確信いたしましょう。