|
新しい命に生きる ローマ6:1-4
「アドベンチストの信仰」という本の中から、いのちをかけてバプテスマを受けた一人の夫人のお話をいたします。
ニャングウィラは中央アフリカに住んでいましたが、バプテスマを受けても受けなくてもよいものとは思いませんでした。彼女は一年以上聖書を熱心に学んでいました。彼女はクリスチャンになるのを待ち焦がれていました。
ある晩、彼女は学んだことを夫に話しました。彼は怒ってどなりました、「そんな宗教はうちにはいらない、勉強を続けるのなら殺してやる」。彼女は打ちひしがれましたが、聖書研究を続け、やがてバプテスマの用意ができました。
バプテスマ式に出かける前に、ニャングウィラはうやうやしく夫の前にひざまずき、バプテスマを受けるつもりだと告げました。彼は大きな狩猟用ナイフをつかみ、「バプテスマを受けてはいけないと言ったではないか。おまえがバプテスマを受ける日に殺してやる」と怒鳴りました。
しかし彼女は主に従う決心をし、夫のおどかしが耳に鳴り響くまま家を出ました。水に入る前に、彼女は罪を告白し、彼女の救い主に生涯を捧げました。彼女はバプテスマを受けたために夫に殺されることになるかどうか分からないままバプテスマを受けたのでした。
彼女は家に戻ると、ナイフを夫のところに持っていきました。 「バプテスマを受けてしまったのか」と夫は怒って問いました。 「はい」とニャングウィラは答えました。 「さあ、ナイフをどうぞ。」 「殺される用意ができているのか。」 「はい、できています。」 その勇気に驚いて、夫はもはや彼女を殺そうとは思わなくなりました。 S. M. Samuel, “A Brave African Wife,” Review and Herald, February 14, 1963, p.19.
バプテスマはいのちをかけて受けるだけの価値があるのでしょうか。はい、あります。なぜなら、イエスご自身がバプテスマを受けられたからです。イエスはヨルダン川に行って、ヨハネからバプテスマを受けようとされたとき、ヨハネは断りました。しかし、イエスはそのヨハネの反対を押し切って、ご自分がバプテスマを受けることを強く主張されました。罪人ではありませんでしたが、わたしたちに模範を示すために、あえて罪人が取るべき道を示されたのです。それに、昇天される前に、最後のご命令として、すべての国民にバプテスマをさずけることを弟子たちにご命令されました(マタイ28:19)。皆さん、バプテスマはすべての人たちが受けるものです。これはイエスからのご命令でした。どうして、わたしたちはバプテスマを軽く見ることができるでしょうか。マルコ16:16をご覧ください。「信じてバプテスマを受ける者は救われる。」バプテスマは救われるためにどうしても受けなくてはいけないものなのです。
では、バプテスマとはいったい何なのでしょうか。英語のバプタイズはギリシャ語のバプティゾから来ています。これはもともと「沈む」とか「溺れる」という意味がありました。たとえば、船が沈むとか、人が溺れ死ぬとか、そんなたぐいのものです。単に「浸す」とか「もぐる」というものではありません。死をもたらすような悲惨な出来事を表す言葉でした。
イエスはご自身の死を「バプテスマ」という言葉に置き換えて、次のように述べられました。マルコ10:38をご覧ください。
マルコ10:38 イエスは言われた、「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていない。あなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができるか」。
イエスにとって、バプテスマは受難の死を表わす象徴的な表現でした。わたしたちの罪のために苦しまれた死です。神との関係が完全に断ち切られ死です。それは「第二の死」とも言われる永遠の死です。生きていくなかで一番悲惨な死とも言えるでしょう。イエスはそのようなご自身の背負われた死を「バプテスマ」とお呼びになりました。しかし、これはわたしたちが受けるべきバプテスマでなく、イエスご自身がわたしたちのために受けなくてはならなかったバプテスマでした。
では、わたしたちが受けなければならないバプテスマとはいったい何なのでしょうか。それについて、使徒パウロはローマ6:3-6において次のように述べています。
ローマ6:3 それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。 6:4 すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。 6:5 もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。 6:6 わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。
まずパウロにとって、バプテスマは自分の今までの古い生き方に対して死ぬことでありました。古い生き方が十字架につけられるのです。身体を水に沈めることで、古い自分は死んで葬られるのです。罪の中に生きることがなくなるのです(ローマ6:2)。習慣的に罪を犯さなくなるのです(ヨハネ第一3:6,9)。わたしたちのうちにある罪の力が弱まるのです。もはやわたしたちは罪の奴隷になることがありません(ローマ6:6)。罪の誘惑に対する勝利を日々経験するようになるのです。
それだけではありません。バプテスマは新しい生き方によみがえることを意味しています。沈んだ身体が水から上がることで、新しい自分が出発するのです。罪の奴隷から解放されて、主の御霊の奴隷になるのです。神の掟を守ることを喜ぶのです。確かに、わたしたちは生きている以上、罪を犯します。もし「わたしは罪を犯さない」と言うなら、それは神に対して偽っていることになります(ヨハネ第一1:10)。しかし、バプテスマを受けることで、主に逆らうことに対抗するのです。主を悲しめることをやめようとするのです。罪が自分の敵になるのです。心が主イエス・キリストに向くのです。天の御座のもとにわたしたちの弁護者であり、全世界の罪を償ういけにえになられたイエス・キリストと心が結ばれるのです(ヨハネ第一2:1-2)。
ですから、バプテスマは新しい生活の門出であります。これを契機にわたしたちはよりいっそう高い次元に目を向けて、キリストに献身するのです。バプテスマはわたしたちが救い主の新しい弟子であることの印となるのです。
今日、WilliamさんとJeffさんとLillyさんがバプテスマによって新しい人生の出発をされることを主に感謝いたします。主のお導きがあったからこそ、この3人の兄弟姉妹が神に献身できたのだと思います。皆さんは、自分の心を自分の力で思うようにコントロールできると思っていますか。心は自分の手足のように自由に動かすことができると思っていますか。いいえ。そうではありません。心はそう簡単に自由に操ることができません。皆さんが、今日教会に来て、主を礼拝することを決心したのも、この3人の兄弟姉妹がバプテスマを受けることを決心したのも、すべては主の御霊の尊いお導きがあったからです。主がこの新しい門出を用意してくださったのです。
イエスは迷える小羊のたとえを語られた後に、次のように言われました。ルカ15:7「よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔い改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう。」また、無くなった銀貨のたとえの後には、次のように言われました。ルカ15:10「よく聞きなさい。それとおなじように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、神の御使いたちの前でよろこびがあるであろう。」この三人の兄弟姉妹のバプテスマのために、今日は天の御国で大きな讃美が主にささげられることでしょう。
バプテスマの時期を迎えると、自分が初めてバプテスマを授けたときのことを思い出します。わたしはとても緊張していました。わたしからバプテスマを受けようとしていたお婆さんはもっと緊張していたようです。わたしがそのお婆さんを水に沈めようとしたときに、途中でこの方は抵抗しました。彼女は右手でバプテスマ槽の淵をしっかりと握っていました。身体が水の中に入りません。わたしはその手を外そうとしましたが、手を外してくれません。ご高齢なのに握力はしっかりとしていました。これでは頭が水につかりません。その後の記憶ははっきりとしていないのですが、おそらく彼女の肩を押したのだと思います。必死の思いで頭を無理やりに水につけました。すると、水の中でコツンという音が聞こえました。大事な頭がバプテスマ槽の壁に当たってしまったのです。後で「すみません」と謝りますと、その方は「さわやかな感じがしました」と言って赦してくださいました。
振り返ってみるときに、あのときその方の気持ちをもっと大切にして、その場所で「水を恐れないで、わたしを信じて、わたしにお任せください」ときちんと説明すればよかったと思います。そして、もう一度バプテスマをやり直せばよかったと思います。なぜなら、バプテスマにおいて大切なのは心であるからです。主にすべてをささげる献身の思いです。罪に死んで、主のために新しくやり直す決意です。バプテスマのすべての過程において、心が大切にされなければならないのです。
それで、WilliamさんとJeffさんとLillyさんにお願いいたします。バプテスマを受けようと決心した思いを大事にしてください。それは聖霊のお働きによるものです。そして、先にバプテスマを受けられた教会の皆さん、どうかこの三人の兄弟姉妹の門出を祝福してください。そして、まだバプテスマを受けられていない方たちは、ぜひともこのバプテスマ式の場に立ち会って、この式がどれほど祝福されたものかをご覧になっていただきたいと思います。
バプテスマはわたしにとって本当に感激の瞬間でした。中学3年(カナダでは9年生)のとき、ジョージ岡村の義理のご兄弟になる岩橋孝先生からバプテスマを授けてもらいました。水から上がったとき、すべてがとても新鮮に見えました。今までのすべての罪がみんな洗い流されて、新しく人生をやり直す確信をいただくことができて、本当に嬉しかったです。
バプテスマは新しい生活の門出です。この瞬間に、天においても地上に勝る大きな喜びが満ち溢れることでしょう。願わくは、多くの兄弟姉妹がこのバプテスマの喜びにあずかることができますように。
|