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神の前に正しく -魔術師シモンの過ちから学ぶ- 使徒行伝8:9-25, 詩篇37:1-6
エルサレム教会に対する迫害が始まると、クリスチャンたちは四方八方に散っていって、福音を宣べ伝えるようになりました。その中でも教会の執事であったピリポはサマリアの町に行きました。
サマリアにはシモンという人がいました。彼は魔術師でした。不思議な業を見せては人々を驚かせていました。更に彼は「わたしは偉大な人物だ」と自称していました。人々はその言葉をまともに信じてしまい、「この人こそは『大能』と呼ばれる神の力だ」と言って彼を神聖化するようになりました。
どうしてか人間は不思議な業を見ると、それをすぐに神の業だと性急に判断してしまいがちです。しかし、その不思議な業が神からのものと簡単に言い切ることができるでしょうか。サタンもおなじような不思議な業を行うことができるのです。
マタイ24:23 そのとき、だれかがあなたがたに『見よ、ここにキリストがいる』、また、『あそこにいる』と言っても、それを信じるな。 24:24 にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。
テサロニケ第二2:9 不法の者が来るのは、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力と、しるしと、不思議と、 2:10 また、あらゆる不義の惑わしとを、滅ぶべき者どもに対して行うためである。彼らが滅びるのは、自分らの救となるべき真理に対する愛を受けいれなかった報いである。
確かに、不思議な業は人を驚かせて感動させます。しかし落とし穴があります。不思議な業は人を悔い改めに導くものではありません。キリストを信じさせるものではありません。人を興奮させて、もしそれがサタンからの奇跡であるならば破滅に導いていきます。ですから、それが神からのものか、サタンからのものか、注意深く見極める必要があります。
ずっと前の話ですが、あるアドベンチストの医療宣教師がアフリカに派遣されました。彼はそこで一生懸命に働いたのですが、不幸なことに自分の二人の娘を病気で失ってしまいました。彼は医者でありながら、自分の娘たちを救えなかったことにとてもショックを受けて、なかなか立ち直ることができませんでした。ようやく、気持ちを取り戻して、診療所を再開したとき、一人の紳士がやってきました。彼は患者さんというよりも、その医者と何か話をしたかったようです。彼はその医者に自分たちの集会に出るように誘いました。その集会とは心霊術の集会でした。医者は断りました。しかし、その紳士は「わたしたちがあなたたちの集会に出るので、わたしたちの集会に是非とも出席してください」と何度も言うので、医者は一度だけ出てみることにしました。
彼がその集会室に入って最初に会ったのは誰だと思いますか。そうです。それは死んだはずの娘たちでした。二人の娘はお父さんのところに抱きついてきて離れませんでした。それから彼はその集会にずっと通うようになり、結局、最後には不自然な形で亡くなっていきました。
不思議な業は人を興奮させるものであるかもしれません。しかし、大きな落とし穴があることを覚えていなくてはなりません。その不思議な業が神からのものか、サタンからのものか、聖霊の助けによって、見極めないといけません。
さて、このシモンにライバルがやって来ました。その名はピリポです。ピリポがイエス・キリストの救いを宣べ伝えることで、今までシモンについていた人々は、ピリポの説く福音を信じるようになって、彼からバプテスマを受けるようになりました。それだけではありません。シモン自身もバプテスマを受けて、ピリポにつき従いました。
ではシモンは本当に改心したのでしょうか。いいえ。そうではありませんでした。彼は心から自分の罪を悔い改めたのでも、魔術をやめたのでもありません。彼の関心事は、罪の赦しよりもしるしや奇跡でした。ペトロとヨハネがサマリアにやって来て、ピリポからバプテスマを受けた人たちに聖霊が与えられるように祈ったときに、シモンはその場にいて、聖霊が彼らの上に下るのを目撃しました。それは非常に感動的な場面でした。彼は自分もその聖霊の力がほしくなりました。何とかお金でその力を買えないものかと考えました。18節から読んでみましょう。
使徒行伝8:18 シモンは、使徒たちが手をおいたために、御霊が人々に授けられたのを見て、金をさし出し、 8:19 「わたしが手をおけばだれにでも聖霊が授けられるように、その力をわたしにも下さい」と言った。
ペトロはそれを聞いて激怒しました。20節からお読みします。
使徒行伝8:20 そこで、ペテロが彼に言った、「おまえの金は、おまえもろとも、うせてしまえ。神の賜物が、金で得られるなどと思っているのか。 8:21 おまえの心が、神の前に正しくないから、おまえは、とうてい、この事にあずかることができない。 8:22 だから、この悪事を悔いて、主に祈れ。そうすればあるいはそんな思いを心にいだいたことが、ゆるされるかも知れない。 8:23 おまえには、まだ苦い胆汁があり、不義のなわ目がからみついている。それが、わたしにわかっている」。
ペトロはシモンを叱り飛ばしました。「おまえの金は、おまえもろとも、うせてしまえ」とは、非常にきつい表現です。彼の人柄が表れています。しかし、彼はシモンに対して悔い改めを促しました。鬱憤晴らしに怒ったのでなく、シモンの永遠の救いのことを考えて怒ったのです。ところが、シモンはそのペトロの気持ちが分かりませんでした。悔い改めようとしませんでした。自分から祈ろうともしませんでした。むしろ災いがくだらないように祈ってほしいとペトロにお願いしました。
聖霊はお金で買えるものではありません。聖霊を受ける先行条件は何でしょうか。それは服従です。使徒行伝5:32をご覧ください。ペトロは大祭司に向かって語った説教の中で、聖霊のことを「神がご自身に従う者に賜わった聖霊」と語りました。聖霊は主に背く者でなく、主に従う者に与えられるのです。そして、彼らがもっと主に服従するように、聖霊は助けてくださるのです。魔術師のシモンはこの服従を怠りました。主に従うことよりも、しるしや奇跡に関心を持っていたのです。そして、それを手に入れるために、お金で買おうとしました。
聖霊は神です。単なる力ではありません。父なる神と御子イエス・キリストと心を一つにして働かれる神です。この三人の神が相撲取りをすることは決してありません。ぶつかり合うことはまったくありません。わたしたちの救いのためにいつも心が一致しているのです。一人の神とまったく変わりなく働いておられるのです。ですから、わたしたちが主イエス・キリストの御心に背いたままで、聖霊の神の力を受けるようなことはまったくあり得ないことです。主イエスに背くことは、聖霊の神に背を向けることになるのです。シモンはこの三位一体のつながりを気づかず、ただ聖霊のしるしだけを求めようとしました。
聖霊は主を証するために与えられるものです。聖霊の力は見世物ではありません。偉大な人物になるための道具ではありません。主イエスがわたしたちの個人的な救い主であられることを明らかにするために与えられるのです。使徒行伝1:8をご覧ください。主イエスは昇天される前に、弟子たちに対して聖霊の働きの目的をはっきりと教えられました。「ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。シモンは主の証し人になりたいからバプテスマを受けたのでしょうか。主の御業を誰かに伝えたいから聖霊を求めたのでしょうか。いいえ。証をするためでなく、自分に力が与えられて、神のように偉大な人物になることを希望していたからです。
わたしたちには生きていく上で聖霊の助けが必要です。それは目に見えるしるしや奇跡以上のものです。つまり、心のうちに働く神の力です。人の生き方を変えていく神の力です。ガラテヤ5:22,23に記されているような、「愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制」を生み出していく神の力です。そのような聖霊の神の力こそが、今必要とされているのではないでしょうか。
今週のことですが、日本のNHKテレビを見ていましたときに、日本で昨年亡くなられた人の数が発表されました。3万2千552人です。何による死亡者数だと思いますか。実は2005年の自殺者数です。これは警察署によってはじき出された数です。1年間の交通事故による死亡者数の約5倍になります。この年間の数を、1日に換算してみますと、平均89人になります。毎日89人もの方たちが、生きることに失望して自ら命を絶っているのです。この教会の礼拝出席者よりも若干多い数です。とても悲しいニュースです。もしこのような人たちが主イエスを知っていたならば、命を絶つようなことをしなかったでしょう。カナダでは最近の統計はまだ出ていませんが、1997年の統計(Statistics Canada)によりますと、自殺者は3,681人です。日本よりは少なくても、やはり生きることに失望する人たちが身近にいることをとても残念なことです。このような人たちにこそ、御霊の実である「愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制」が必要とされているのではないでしょうか。
聖霊の導きに従い、心が神の前に正しくあるようにいたしましょう。聖霊の神は皆さんの心の状態を一番良くご存知です。心がどう動くかを人は知ることができなくても、神は知っておられるのです。魔術師のシモンは目に見えるしるしや奇跡を聖霊から求めました。しかし、もっとも大いなるものは、むしろ内面の奇跡です。それは人の生き方を変えていく聖霊の力です。罪を悔い改めて、聖霊によってわたしたちを主のみかたちにつくりかえていただくように祈りましょう。
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