サウロの回心
 

まだ電報が長距離通信のもっとも早い方法であったころのお話です。一人の青年がモールス信号の交換手になるための仕事を探していました。彼は新聞の就職募集の広告を見つけて、それを目当てに仕事場へ行きました。そこは、とても広いオフィスで、電報の音やいろいろな雑音などで、とても騒がしくしていました。彼は申込用紙に名前住所などを記入すると、座って順番を待っていました。そのときには既に7人の人たちが待合室で待っていました。

 

しばらくして、その若い男性は立ち上がり、部屋を横切って、奥のオフィスの中に入っていきました。他の7人の人たちはいったい何があったのかと不思議に思いました。まだ誰も呼ばれていないので、ぶつぶつ言いました。それから数分が経つと、支配人がその若者を連れて、オフィスから出てきて、皆さんにこう言いました。「皆さん、わざわざおいでくださってありがとうございました。ちょうど仕事が補充されました。」


みんな不満そうでした。そこで一人の人がこう言いました。「ちょっと待ってください。わけが分かりません。彼は一番最後に来ているのに、先に来たわたしたちに面接のチャンスを一度ももらっていません。それなのに、彼が先に仕事を取りました。不公平です。」支配人は言いました。「すみません。でも、皆さんが座っているときに、『もしも、次のメッセージが分かれば、中にお入りください。仕事はあなたのものです。』というメッセージをモーリス信号でずっと送っていましたよ。それなのにあなたたちは誰もそれを聞いていなかったのか、理解をしていませんでした。でもこの青年はそれを聞いていました。ですから、仕事は彼のものなのです。」


わたしたちは忙しい社会に生きていますので、周りからいろいろな雑音が聞こえてきます。その中で、わたしたちはしっかりと神の声に耳を傾ける必要があります。エレン・ホワイトは「この世の与えるものよりも更に良いものを心の中に求めるその心の願いが魂へ呼びかける神のみ声である」(キリストへの道、30ページ)と述べています。皆さんは、神のみ声に波長を合わせていますか。使徒行伝9章をお開きください。今朝はイエスのみ声を聞いて回心したサウロの体験についてご一緒に考えてみましょう。

 

使徒行伝 9:1 さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅迫、殺害の息をはずませながら、大祭司のところに行って、9:2 ダマスコの諸会堂あての添書を求めた。それは、この道の者を見つけ次第、男女の別なく縛りあげて、エルサレムにひっぱって来るためであった。

 

サウロはクリスチャンを積極的に迫害する人物でした。脅迫したり殺害したりすることに意気込んでいました。その熱心さは、国外にまでも逃げて行ったクリスチャンを追跡するほどに激しいものでした。彼はダマスコに逃げ延びたクリスチャンを逮捕するために、わざわざ大祭司のところへ行って、ダマスコの諸会堂宛に手紙を書いてもらいます。そして同僚とともにダマスコに向かいます。そこまでしてまでも、彼はクリスチャンをこの世からなくすことに徹底していました。教会からは非常に恐れられていた人物でした。しかし、不思議なことに、神はそのようなサウロに声をかけられて、彼を回心させられるのです。それはサウロがダマスコへ後もう少しで到着しようとしていたときの真昼頃のことでした。3節をご覧ください。

 

使徒行伝9:3 ところが、道を急いでダマスコの近くにきたとき、突然、天から光がさして、彼をめぐり照した。

9:4 彼は地に倒れたが、その時「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。

9:5 そこで彼は「主よ、あなたは、どなたですか」と尋ねた。すると答があった、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。

9:6 さあ立って、町にはいって行きなさい。そうすれば、そこであなたのなすべき事が告げられるであろう」。

9:7 サウロの同行者たちは物も言えずに立っていて、声だけは聞えたが、だれも見えなかった。

 

イエスは天から降りて来られて、サウロのもとに現れました。そのみ姿は神の栄光に輝いていたために、彼は目がくらんで地に倒れてしまいました。その時、耳元にイエスのみ声が響いてきました。「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。わたしは、あなたが迫害しているイエスである」。このみ声は本当に彼を驚かせたと思います。なぜなら、十字架上で死んだはずのイエスが生きておられたからです。しかも、神の栄光で眩しく輝いていたのです。と言うことは、イエスの弟子たちの主張していたように、実は、この方が死からよみがえられた神の御子であられたのです。それだけではありません。この聖なるお方を、自分が迫害していたのです。クリスチャンを苦しめることが神の御心だと信じていたのですが、それは間違いで、自分は神の御子イエスを苦しめていたのです。神に逆らうことを堂々としてきたのです。

 

皆さんがサウロの立場であったならば、どうされますか。死んだはずの人が生き返っていて、その人が実は神であって、自分が神を苦しませるような悪いことを長年行ってきたとすれば、皆さんならどうされますか。

 

8節からご覧ください。サウロはまず地面から起き上がって、目を開けようとしました。ところが、目が開きません。何も見えません。そこで同行していた人たちにダマスコまで連れて行ってもらいますが、そこで彼は3日間、食べることも飲むこともしないで、自分のこれまでの生き方を反省するのです。

 

そして、主の弟子であるアナニアに祈ってもらうことで、目が元通りに見えるようになるのですが、彼からバプテスマを受けます。更に、20節をご覧ください。彼はすぐに出て行って、ダマスコのあちらこちらの会堂で、イエスこそが生きた神の子であることを宣べ伝えるようになるのです。

 

こうしてサウロの生き方は完全に変わりました。こう言うのをコペルニクス的回心と言ったらいいでしょうか。クリスチャンを迫害する者からクリスチャンを擁護し、クリスチャンを増やしていく者に変えられていきました。

 

Doug Batchelor牧師が書いたThe Truth About Mary Magdaleneという本にあるクリスチャン女性の話が載っていました。

 

サラは主を心から信じるまれに見るすばらしいクリスチャンでした。しかし、弟のジョージは家族の中でも変わり者で、姉の生き方とはまったく正反対でした。ジョージには深刻なアルコールの問題がありました。何年も身体を痛めることで、ガタガタの状態になりました。彼の腎臓は急速に弱っていました。医者はジョージが腎臓移植をしないならば直ぐにでも死ぬだろうとサラに告げました。

「移植はどうなのでしょうか。」彼女は尋ねました。

「ジョージには飲酒歴があるために、臓器の受取人のリストに名前を入れてもらえないと思います」と医者は答えました。

そこで、サラは迷わず「わたしが自分の腎臓の一つを病気の弟にあげられるでしょうか」と医者に尋ねました。

医者は答えます。「もしあなたの血液型と一致するならばできるでしょう。しかし、これはとても高い手術です。自殺的な悪習慣をもった人のためにあなたの健康を危険にさらすことにわたしは疑問を感じます。」

「お医者さん、わたしの腎臓が移植にふさわしいのかどうかだけでも調べてください。」

二人の血液型は一致しました。会計がお金の問題を持ち出したところ、ジョージには保険がかかっていなかったので、サラは自分の家を抵当に入れて、必要な治療費を全額支払う責任を負うことにしました。彼女は病院と腎臓移植のチームに執拗にお願いをして、手術を実行してもらいました。

 

ジョージのほうの手術は成功しました。しかし、サラのほうは、そうではありませんでした。麻酔薬に対するまれなアレルギー反応によって、手術の後、彼女は腰から下が麻痺してしまいました。でも、ジョージが順調に回復していることを聞かされたので、この悲劇に少し耐えられるようになりました。彼女は言いました。「わたしは神様に感謝します。弟にイエス様を見出す数年のいのちを上げられるのですから、歩くことができなくても、それだけの価値はあります。」

 

何と高尚で寛容な心をもったお姉さんでしょうか。しかし、わたしはこのすばらしい品性述べるためにこのお話をしたのではありません。人生は小説よりも予想外のものです。この弟はお姉さんの枕元にやって来て、犠牲を払ってくれたことに感謝の言葉をひと言も述べませんでした。サラはどんな心境にあったと思いますか。また、弟は退院してからまずバーに行って、良くなったことを祝いました。サラはいったいどんな悲しい思いでこのことを聞いていたのでしょう。

 

この話はとても悲しい結末で終わっています。お姉さんのサラが可哀想でなりません。自分の腎臓を提供してまでも弟を救ってあげたいと願ったお姉さんの気持ちは、残念ながらこの弟には伝わりませんでした。

 

キリストへの道に次のような言葉があります。

「人は罪の恐ろしさを知るまでは罪を捨てるものではありません。心の中でまったく罪から離れなければ、生活にほんとうの変化は起こらないのです。」(22ページ)

 

確かに、罪はその恐ろしさを本当に知るまでは捨てられるものではありません。あの弟のジョージには自分の身体がぼろぼろになっても、自分のためにお姉さんの身体が下半身不随になっても、罪の恐ろしさがまだ見えてこなかったのです。彼にとって罪は非常に魅力的なものであったのです。

 

ではなぜ、サウロは罪から離れることができたのでしょうか。それは自分の罪がイエス・キリストを苦しめている恐ろしさに気づいたからです。彼はクリスチャンを苦しめてもなんとも思いませんでした。それだけ罪にどっぷりと浸かっていました。しかし、この罪が天におられる御子イエスを苦しめていることに気づいたときに、彼は迫害することを完全にやめたのです。そして回心が始まりました。

 

わたしは 肺がんの末期患者さんを訪問したときのことを今でもはっきりと覚えています。この方は酸素マスクをして、息苦しそうにしていました。何と声をかけてあげたらいいのか分かりませんでしたが、彼女から一言こんなことを言われました。「わたしは肺がんがこんなに恐ろしいものだとは知りませんでした。できるだけたくさんの人たちにわたしの苦しみを伝えてください。」

 

苦しみながら死ぬのは本当に辛いことです。イエスは決して安らかな死を遂げられませんでした。人類のすべての罪の罰を十字架の上でお受けになられたのですから、その苦しみが耐え難いものであったと思います。サウロは自分のために苦しむメシアを考えたときに、断腸の思いであったでしょう。使徒行伝9:9に、サウロは三日間何も食べず何も飲まなかったと、書かれています。彼は本当に心を砕いて、神に悔い改めの祈りをささげたのだと思います。これが彼の回心となり、人生の新しい出発となったのです。

 

主イエスはわたしたちの罪の苦しみを代わりに背負ってくださいました。つまり、わたしたちの罪が神であられるイエスを苦しめて十字架にかけてしまったのです。罪は人を殺すだけでなく、環境を壊すだけでもなく、神をも殺してしまうほどに残酷なものです。罪は非常に恐ろしいものです。これほど恐ろしいものは他にこの世にありません。サウロはこの罪を認めることで、罪から離れる決心をし、イエスに従う決心をしたのです。

 

ペトロ第一2:24 (キリストは)わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。

 

今、あちらこちらで殺し合いがあります。イラクやアフガニスタン、それにレバノンとイスラエルで、毎日のように殺し合いが行われています。この教会の周辺のEast Yorkでも、真昼間に発砲事件がありました。人の命を奪おうとする残虐な行為が今、平気で行われています。残念なことです。それほどまでに世の中は乱れてきました。どれほど、主は天において悲しんでおられることでしょう。罪は恐ろしいものです。

 

わたしたちの願いは、彼らがサウロのように主に立ち返って回心することです。そのために主はわざわざ十字架上ですべての人の罪の身代わりとなって亡くなられたのです。多くの人々が救われることを祈りましょう。不可能なことでしょうか。クリスチャンが苦しむことを喜びとしていたサウロがイエスに出会うことで回心したのですから、それは決して不可能なことではないのです。主の御霊が人々の心に豊かに働き、多くの魂が救われることを祈ります。

皆様の上に、主の豊かなる祝福がありますようにお祈り申し上げます。