主の言葉は、とこしえに残る

黙示録6 :1-8

 

皆様、新年明けましておめでとうございます。今年も昨年と変わらず、皆様と協力して主の働きをなし、キリストの再臨の準備をしたいと願っております。

 

黙示録の5章には、キリストが御座にいます父なる神から巻物を受け取って、それを手にしている姿が描かれています。巻物は神のご計画、または神のご意志を表わします。その巻物は7つの封印で封じられています。つまり、神のご計画は誰にも分からないように封じられているのです。しかしキリストがそのご計画をご自身の手の中でちゃんと守っておられます。誰もそのご計画を変更することが出来ないようになっているのです。

 

6章にはいると、キリストはその封印を一つひとつ解いていかれます。その神のご計画を少しずつ人類に明らかにしていかれるのです。しかもその封印が解かれるたびに、四つの生き物の一つが雷のような大きな声で「来たれ」と叫びます。エゼキエル書10:20によれば、その四つの生き物はケルビムです。神に最も近い御使いです。ケルビムもキリストと共に、主のご計画の啓示にかかわるのです。

 

では封印が解かれることで、いったい何が起こるのでしょうか。4頭の馬が現れてきます。第1の封印が解かれると白い馬が出てきます。第2の封印では赤い馬、第3の封印では黒い馬、第4の封印では青白い馬と、こういった順序で現れます。そしてそれぞれの馬には人が乗っています。

 

白い馬に乗っている人は、手に弓を持って、冠が与えられています。彼は戦いに勝利を得ようと出かけていきます。それは救いの勝利です。なぜなら、黙示録では、白は必ずキリストにある救いを表わすからです。主に忠実な人には白い石が与えられると約束されました(2:17)。彼らは白い衣を着ます(3:4,5,18)。二十四人の長老も白い衣を身にまといます(4:4)。殉教者にも白い衣が与えられます(6:11)。数え切れないほどの大勢の救われた人たちも白い衣を着ます(7:9,13)。ですから白い馬は戦いで勝利を得た真の教会を表していると言えるでしょう。それは歴史的に言うならば、キリストの昇天AD31年から100年までの初代教会です。

 

ところが第2の封印が解かれると、場面がまったく変わります。赤い馬が現れます。それに乗っている人は、大きな剣が与えられて、地上から平和を奪い取ることが許されます。人々は互いに殺しあいます。これは迫害された教会の姿を表しています。教会は人々の流す血によって赤く染まるのです。真の教会が出てくれば、必ずそれに対して反対が起こります。迫害があります。暴力があり、殺人があります。特に、AD100年から323年にかけて、真理に忠実であったために、数え切れないほどの多くの殉教者の血が流されました。その迫害はヨーロッパ全体だけでなく北アフリカにまで及びました。

 

次に、第3の封印が解かれると、黒い馬が現れます。それに乗っている人は、はかりを手にしていました。四つの生き物のあいだから、つまりケルビムから声が聞こえてきます。「小麦一ますは一デナリ。大麦三ますも一デナリ。オリブ油とぶどう酒を損なうな。」「ます」は原語でchoinixと呼びますが、「一ます」は約1リットルの分量に相当します。「一デナリ」はローマの銀貨で一日の平均的な労働賃金です。つまり一日の労賃で小麦を1リットル買うのです。大麦は3リットルです。高くないでしょうか。仮に一日の労賃を100ドルとしますと、100ドル払って小麦1リットルを買うのです。皆さんだったら、そんな買い物ができますか。但し、オリブの木も、ぶどうの木も、地中にかなり深く根を張っていますから、小麦や大麦と違って飢饉には強いので、木は簡単に枯れません。だからと言って、オリブもぶどうも決して無駄にはできません。「オリブ油とぶどう酒を損なうな」とは、そう言った意味のことでしょう。

 

この黒い馬は霊的な意味で御言葉の飢饉を表しています。預言者アモスはそのことを既に預言していた(アモス8:11-13)。真の教会が現れると、迫害が始まります。しかし、迫害が収まると、今度はみ言葉の飢饉が始まります。神のみ言葉が教会であまり語られなくなってしまうのです。しかし、それでも霊的なオリブとぶどうは残ります。オリブ油は聖霊を表します。一方、ぶどう酒は救いの恵みを表します。つまり、御言葉が教会で十分語られなくなったとしても、福音が語られなくなったとしても、なお聖霊の神は教会を見捨てずに働き続けるのです。救いの門を開いておられるのです。

 

では、歴史的にはこの黒い馬はどの時期を表しているのでしょうか。それは迫害が終わって、キリスト教がローマ帝国の国教になったときです。何千という異教徒が教会に加わりました。教会が突然と大きくなりました。しかし、残念ながらも、神のみ言葉が軽んじられて、さまざまな異教の習慣が教会に持ち込まれるようになりました。たとえば偶像礼拝です。偶像にペトロとかマリアとか聖書の人物名が付けられて、それを拝みました。また教会は太陽神を拝む日曜日に礼拝するようになりました。こうして教会は聖書の教えに逆らい、世の中の習慣を取り入れ、福音の光が消えていきました。黒い馬は教会の霊的な暗黒時代を象徴しています。

 

次に第4の封印が解かれます。すると、青白い馬が現れます。それに乗っている人には、「死」という名前が与えられます。黄泉に従います。この青白い馬は霊的に死にかけた教会の状態を表しています。教会は真理を掲げる白い馬から、迫害される赤い馬になりました。そして迫害が収まると、み言葉の光を失った黒い馬になりました。その結果、教会は死んだような青白い馬に変わっていったのです。

 

こうして見ますと、み言葉の飢饉が教会においていかに深刻な問題であったかが分かります。教会が聖書を語らなくなり、聖書を土台にして活動しなくなれば、人間的な権威を振りかざして多くの過ちを犯していくのです。68節の後半をご覧ください。教会は「地の四分の一を支配する権威、および、つるぎと、ききんと、死と、地の獣らとによって人を殺す権威」とが与えられるようになったと書かれています。ただし主の憐れみによって、その暴力的な権威はこの世界の四分の一だけに止められました。他の四分の三は守られたのです。

 

み言葉は人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益であります。神のご意志を教えます。悔い改めの言葉を語りかけます。罪を自覚させます。堕落から引き上げて正しい目標に向かわせます。正しい人に作り上げていきます。それがみ言葉の役割です。もしこのみ言葉がわたしたちのうちになくなるならば、青白い馬のように変わり果てるのです。

 

皆さんは2007年の新しい年に向かってどのような決心をされましたでしょうか。わたしたちの決心は聖書のみ言葉を土台としたものでなくてはなりません。

 

ペトロ第一1:24 「人はみな草のごとく、/その栄華はみな草の花に似ている。草は枯れ、/花は散る。

1:25 しかし、主の言葉は、とこしえに残る」。これが、あなたがたに宣べ伝えられた御言葉である。

 

この世のあらゆるものは枯れて散っていきます。建物はいずれだめになって壊されていきます。人も必ず死んでいきます。人の名前も時代と共に忘れられていきます。持っているお金もいずれはなくなっていきます。悲しいことですが、それは事実です。しかし、神のみ言葉はいつまでも生きています。み言葉は白い馬の時代だけでなく、赤い馬の時代にも、黒い馬の時代にも、青白い馬の時代にも生き残るのです。

 

13世紀の初期、フランチェスコと呼ばれる青年はマタイの福音書の僅かなみ言葉を聞いて、教会に霊的な革命を引き起こしました。そのみ言葉とはイエスが弟子たちに語られたマタイ10:5-15の説教です。彼はみ言葉の上に立って、世的なものをみんな捨て、貧しい人や病人を助けることと、み言葉を語ることに生涯をささげました。彼の簡素な生き方は、当時の中世の教会の人たちの心を揺るがしました。また14世紀には、ジョン・ウィクリフも当時のイギリス国教会のあり方を非難して、新約聖書の単純で純粋な信仰にもう一度戻るように訴えました。

 

イエスは予算の優先順位について助言されました。それはまず神を第一にということです。

 

マタイ6:33 まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。

 

新しい年を始めるにあたって、まず神を第一にするようにいたしましょう。そうするならば、わたしたちに必要なものはすべて与えられるのです。

 

ドイツのStuttgartNicolaという青年がいました。彼は高校を卒業後にディスコのDJになりましたが、稼いだお金をみんなレコードやスロットマシーンや麻薬に使ってしまって、無一文になりました。借金も残りました。彼は麻薬や音楽に溺れながらも、こんな生活をいつまでも続けてはいけないことに気づいていました。と言うのも、幼いころに母親から神について話を聞かされていて、一緒にお祈りをしたこともありました。

 

ある日、ディスコの仕事から終えて帰宅すると、彼はひざまずいて、言葉に出して神に叫びました。「神様、あなたが本当に存在されるならば、どうかわたしを救ってください。もしわたしを助けてくださったら、神様にすべてを明け渡します。」彼は真剣に祈りました。その祈りに応えられて、彼はアルコールとタバコとギャンブルなど、長年自分を縛り付けていたものから解放されました。それでも彼はまだ神について良く知りませんでしたし、神のために自分は何をしたらいいのか分かりませんでした。

 

その後、ある牧師から数人の学生と一緒に食事をしながら聖書研究をしませんかと誘われました。彼は好奇心から集会に出席してみました。そしてそれがきっかけで安息日に教会の礼拝にも出席するようになりました。そして5ヶ月間聖書をじっくり学んで、バプテスマを受けました。

 

それから何ヶ月かたった頃、自分のうちに変化を感じました。これまで楽しんで聞いていたpop, rock, funk, hip-hop, jazz, techno等の世俗的な音楽に何となく違和感を持つようになりました。このような音楽について神はいったいどのような答えを持っておられるのだろうかと考えました。彼は神から直接答えをもらおうと思い、牧師や友達には直接話しませんでした。彼は何週間も祈りました。

 

ある日、いつもの音楽を聞いていると、突然その音楽が始めて聞く音楽のように感じました。そして耳障りに聞こえました。歌詞を聴くと、それは人とサタンをたたえるような歌詞です。それ以来、彼はこういった音楽を聴かなくなりました。むしろイエスが好きになりました。こうして神との出会いが彼の人生を180度変えていきました。

 

神は生きておられます。神はわたしたちを愛してくださっています。今、心の奥底から神にすべてをゆだねるようにいたしましょう。どこへ導かれようとも、神のみ言葉に従う決心をいたしましょう。そのみ言葉が何か不便なことを強いるように思えても、み言葉の教えに硬く立つようにいたしましょう。

 

ペトロ第一1:24 「人はみな草のごとく、/その栄華はみな草の花に似ている。草は枯れ、/花は散る。

1:25 しかし、主の言葉は、とこしえに残る」。これが、あなたがたに宣べ伝えられた御言葉である。