死と黄泉の鍵

 

今朝はヨハネが復活して栄化されたイエスに再会したことと(黙示録1:9-16)、イエスから一つの任命が与えられたことについてご一緒に考えて見ましょう(黙示録1:17-20)。

 

ヨハネがイエスに再会したのは、彼がパトモス島にいるときでした。パトモス島はエーゲ海の小さな島です。現在の人口は約2600人。彼はここで「神の言とイエスのあかしとのゆえに」に幽閉されていました。

 

10節をご覧ください。ヨハネが「主の日」に御霊を感じたと書かれています。「主の日」とは何でしょうか。古くから多くの人たちは日曜日と信じてきました。スペイン語で日曜日のことを”Domingo”と言いますが、この言葉はラテン語の”Dominica”から由来しています。”Dominica”とは「主の日」という意味です。フランス語の”Dimanche”もやはり”Dominica”「主の日」から来ています。かなり古い昔から、「主の日」を日曜日と信じられていました。

 

しかし「主の日」を日曜日とする聖書的な根拠はどこにもありません。むしろ「主の日」を安息日とするほうが、聖書に沿った解釈ではないかと思います。十戒の第四条に「七日目はあなたの神、主の安息である」(出エジプト記20:10)と書かれています。イザヤ書58:13では、主ご自身は安息日を「わが聖日」「主の聖日」と呼んでいます。またマルコ2:28でイエスご自身はこう言われました。「それだから、人の子は、安息日にもまた主なのである」。安息日は主に属する日、主がお選びになった日であります。

 

それに歴史的に言えば、教会で日曜日が「主の日」と呼ばれるようになったのは2世紀になってからです。黙示録が書かれたのは、それよりも少し前のAD95年です。ですから、ヨハネは安息日を「主の日」と呼んだ、と考えたほうが妥当であります。

 

さて、ヨハネはこの「主の日」に御霊に満たされました。後ろのほうでラッパのような響きの大きな声が聞こえてきました。「あなたが見ていることを書き物にして、七つの教会に送りなさい」。それはとても懐かしい声でした。後ろを振り返ると、七つの黄金の燭台にイエスが立っておられました。12節から16節までをご覧ください。

 

黙示録1:12 そこでわたしは、わたしに呼びかけたその声を見ようとしてふりむいた。ふりむくと、七つの金の燭台が目についた。

1:13 それらの燭台の間に、足までたれた上着を着、胸に金の帯をしめている人の子のような者がいた。

1:14 そのかしらと髪の毛とは、雪のように白い羊毛に似て真白であり、目は燃える炎のようであった。

1:15 その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、声は大水のとどろきのようであった。

1:16 その右手に七つの星を持ち、口からは、鋭いもろ刃のつるぎがつき出ており、顔は、強く照り輝く太陽のようであった。

 

イエスのお姿はかつてガリラヤやユダヤで見たものとあまりにも異なっていました。髪の毛は雪のように羊の毛のように真っ白でした。声は大水のとどろきのように荘厳でした。着ている服には力と威厳と権威があります。目は燃える炎のようです。足はしんちゅうのように輝いています。顔は太陽のように照り輝いています。もうイエスのみ姿は完全に神の栄光によって輝いていました。

 

このイエスは7つの燭台のあいだにおられます。燭台のあるところと言えば、それは聖所です。なぜ聖所なのでしょうか。それは大祭司のお働きをしておられたからです。わたしたちのために罪の執り成しをしておられたのです。

 

イエスはまた右手に七つの星をもっておられました。七つの星とは20節にあるように七つの教会のみ使いを表しています。七は完全を象徴する数字です。そしてみ使いはここでは教会の指導者或いは代表者を表しています。つまり、イエスは各時代のあらゆる教会をご自身の手にしっかりと握って教会の将来を支配しておられたのです。

 

それだけではありません。イエスは裁きの働きもしておられます。興味深いことに、口から鋭い両刃の剣が突き出ていました。通常でしたら、剣は手で握られるのですが、この場合には口の中にありました。これはこの世の最終的な戦いが言葉によるものであって、血肉によるものではないことを意味しています。

 

このようにイエスは主の栄光によってまぶしく輝きながら、大祭司と裁判官の両方の働きをしておられました。ヨハネはそのお姿を見ていると、恐ろしくなって気を失ってしまいました。そしてその足元に倒れて死人のようになりました。するとイエスはヨハネの上にご自身の右の手を置いて、こう言われました。

 

黙示録1:17b「恐れるな。わたしは初めであり、終りであり、

1:18 また、生きている者である。わたしは死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている者である。そして、死と黄泉とのかぎを持っている。

1:19 そこで、あなたの見たこと、現在のこと、今後起ろうとすることを、書きとめなさい。

 

イエスはヨハネに幻で見たことをすべて書き留めるようにと命じられました。イエスが大祭司の働きをしておられることも、この世を裁かれることも、みんな隠さずに書き留めるように命じられました。現在の働きだけでなくて、将来のこともみんなです。

 

皆さんがそのような命令をイエスから受けたとしたらどんな気持ちがしますか。実際にこれから起ころうとしていることのすべてを目の前に見せられたとしたら、どんな気持ちがしますか。テレビや映画を見るような気持ちでしょうか。面白いでしょうか。仮に10年或いは20年後の会衆の皆さんの素顔をスクリーンで見るぐらいでしたら、それはちょっとしたエンターテイメントになるでしょう。しかし、飢饉や地震やハリケーンによる災害、民族同士の激しい争い、教会に対する迫害などで、人々が苦しみで死んでゆく様子をスクリーン上に見せられたとしたら、何かを感じるでしょう。これから起ころうとすることに対する恐怖であり、それを書き残さなくてはならないという大きな責任でしょう。

 

イエスはヨハネのそんな心境を察していたのでしょうか。「わたしは死と黄泉との鍵をもっている」と言われました。「黄泉」とは悪の力を表しています(6:8;20:14)。つまり、イエスは死と悪の力を滅ぼす力を持っておられるのです(コリント第一15:26)。死を経験されましたが、復活されて、今は天に永遠に生きておられます。「初めであり、終わり」であって、死も生もすべてのことをご支配しておられます。このイエス・キリストを信じてお従いするならば、何も恐れることはないのです。ですから、イエスはヨハネに向かって、「死を恐れず、わたしを信じて、見たこと、現在のこと、今後起ころうとすることを、書きとめなさい」と言われました。

 

ヨハネはこのイエスのご命令に従って、黙示録を忠実に書きました。その真剣な有様が221819節に見られます。

 

黙示録22:18 この書の預言の言葉を聞くすべての人々に対して、わたしは警告する。もしこれに書き加える者があれば、神はその人に、この書に書かれている災害を加えられる。

22:19 また、もしこの預言の書の言葉をとり除く者があれば、神はその人の受くべき分を、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、とり除かれる。

 

余計なことを書き加えたり、逆に削ったりする者はわざわいだと宣言しました。非常に厳しい言葉です。これほど厳しい言葉は、聖書のほかのどこにも見られません。旧約聖書にもパウロの書簡にも、書き加えたり、削ったりしたら命をとるというような言葉は出てきません。ヨハネは本当に真剣な思いで自分が見た幻を書きとめようとしました。

 

これを機会にもう一度黙示録をじっくりと読み直してみようではありませんか。そして、キリストの再臨の準備を更にもう一歩踏み込んだかたちでしていくようにいたしましょう。

 

アイゼンハワーがアメリカ大統領であったころに、一度デンバーを訪れました。そのとき地方新聞の記事に目が留まりました。そこには末期のがんを患った6歳の男の子が大統領に会いたいということが書かれていました。

 

ある日曜日の朝のこと、黒いリムジンがその子の家の前に止まりました。すると大統領が車から出てきて、前の家のドアをノックしました。父親のDonald Haleyが扉を開けました。彼はGパンと古いシャツの姿で、まだひげを剃っていませんでした。後ろには少年が立っていました。

 

大統領は言いました。「ポール、わたしに会いたかったのだね。会えてうれしいよ。」彼は少年をリムジンのところまで連れて行って、それを見せてあげました。それから握手をして、そこを去りました。家族も近所のひとたちも長いこと大統領の突然の訪問について語り合いました。それから父親は自分がちゃんとした身なりをしていなかったことを残念に思い、そのときのことを常に思い出すようにしました。

 

わたしたちはイエス・キリストのお出でになるのをいつも準備していなくてはなりません。お会いするときに、恥ずかしい格好をしないように、霊的なドレスアップをしていなくてはなりません。それはバプテスマであります。この会衆の皆様の中にはまだバプテスマを受けておられない方々がおられます。どうぞ水と聖霊によるバプテスマを受けて、主のお出でになる日の準備をしていただきたいと思います。そしてもう一つの準備として、先にバプテスマを受けた信徒の皆様には、日ごと清めを主から受けていただきたいと思います。

 

イエスは十字架におかかりになる前に再臨のたとえを語られました(マタイ25:1-13)。それは居眠りをしていた10人のおとめのたとえです。ある夜、彼女たちはそれぞれ灯りを手にして、花嫁の家の前で、喜びを分かち合うために花婿が来るのを待っていました。ところが、なかなか花婿が現れません。そこでみんな寝てしまいました。すると真夜中に「花婿だ」という大きな声が聞こえました。驚いた10人のおとめたちは目を覚まします。彼女たちの灯りは消えかかっていました。そこで5人の賢いおとめたちは急いで油を入れました。ところが残りの5人は手元に余分の油を用意していませんでした。そこで賢いおとめのほうに「油を少し分けてください」とお願いしましたが、断られました。そこで彼女たちは油を買いに行きます。元の場所に戻ってきた時には、花婿も花嫁も賢い5人のおとめたちも、みんな婚宴の部屋に入っていて、戸がしっかりと閉められていました。彼女たちは中に入ることができませんでした。

 

このたとえのポイントは、キリストの再臨は個人個人が準備をしなくてはならないということです。夫だけが準備ができていても、それだけでは十分ではありません。妻だけが準備ができていても十分ではありません。両親だけ準備をしていても十分ではありません。ひとりひとりがキリストを受け入れて、バプテスマを受けて、準備をしなくてはならないのです。

 

黙示録はキリストの大切さを教えています。すべての章でキリストが語られています。あらゆる終わりの出来事のなかに、キリストがそこに現れ、人類の救いのために働いておられることが、黙示録に描かれています。

 

ヨハネがこの黙示録からキリストを語ろうとしたその熱意を覚えて、もう一度自らの信仰の再確認するようにいたしましょう。そして、キリストにお会いする準備をいたしましょう。アーメン。